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女性運転手 結城 1

突然の雷雨がオフィス街を襲った夕刻、わたくしはクライアントのオフィスを出たばかりでした。美貴さんがオーナーをなさっているバーまではほんの少し。
傘も持たず、A3のブリーフケースとバッグを手にした白のワンピース姿だったのです。ほんの少し雨宿りをさせていただこう・・・と、心を決めて地下へのドアへ向かったのです。
激しく上がる雨の跳ね返りは華奢なパンプスの足首に幾つもの雨痕をつけました。

「いらっしゃいませ。あら、酷い降りなのですね。」
急な階段を降りて行ったわたくしを見て、小柄な女性のバーテンダーが真っ白なタオルを差し出してくださったのです。
「ごめんなさい、まだ準備中のお時間だったかしら。」
髪に・・ワンピースのスカートにそっと寄り添うような水滴を、お言葉に甘えて拭わせていただいたのです。
「いいえ。こちらにどうぞ。」
大振りな書類ケースとタオルを受け取ると、バーテンダーさんはカウンターの一番奥の席の椅子を引いてくださったのです。

「いつものシャンパンでよろしいですか?」
「ええ。」
このバーテンダーさんとお逢いしたのは、昨年の秋以来のことです。
なのに、昨日伺ったばかりのような接客をしてくださるのは、オーナーとそのご友人のせいなのでしょう。
「いかがですか?」
差し出されたシャンパンは、いつものフルートではなくカクテルグラスに注がれていました。そしてその中央には、美しく色づいた佐藤錦が添えられていたのです。
「あら、すてきね」
「春の苺と違って香りを添えるというわけではないのですが、初夏のこの時期ならではの彩りですからどうぞ眼でお楽しみください。」
「いただきます。」
わたくしの好きなドライなマムが、湿度の高い雷雨の前の空気の気配をすっきりと拭ってくれたのです。
「失礼いたします。」
ドライフルーツをいくつか盛り合わせた小皿をカウンターに出すと、バーテンダーの女性はバックヤードに下がって行ったのです。

キュートなショートヘア、きびきびとした身のこなし、小柄な身体、きりっとしたパンツルック。少年のような透明感のある声。
彼女の姿は、やはり一度だけお逢いしたことがある女性のことを思い起こさせたのです。

クラシックの流れる店内は、はじめて訪れた時と同じ重厚で居心地のよい大人の空間のままでした。雨に濡れたわたくしを気遣ってでしょうか、あまり冷やしすぎないエアコンの空調も心地よかったのです。
雷雨が、このバーを別の空間に運んでいったかのように、わたくしがシャンパンを飲み干すころになってもどなたもお客様はお越しになりませんでした。
ぱたっ・・・ 階段の上の厚いドアが優しく閉じられる音と、革靴の音が聞こえてきました。
「おひさしぶりです。祥子さん。」
優しく穏やかな声は、山崎さんだったのです。
「同じものを。」
店内に戻ってきた女性バーテンダーに、空になっているカウンターの上のグラスを目で示してオーダーをすると、わたくしの左隣にお掛けになったのです。
「ご無沙汰しております。お元気でしたか?」
1月に石塚さんの別荘でお別れして以来でした。春先には、ウエディング・コレクションのブランドも大きな成功をおさめたと、経済誌には書き立てられていらっしゃいました。
「ええ、相変わらずです。祥子さんもお変わりなく。雨に濡れた姿も、いつになく素敵ですね。」
最後の一言は、軽く腰を浮かせてわたくしの耳元で囁くのです。
山崎さんのすべすべとした手のひらの感触を・・・ふいに思い出してしまいました。
「おなじものでよろしかったでしょうか。」
バーテンダーの女性は、わたくしの前には先ほどと同じさくらんぼ入りのシャンパンを、山崎さんにはフルートグラス入りのものを並べました。
「夕立に、乾杯」
軽く目の高さにグラスを上げて、わたくしは2杯目のシャンパンを口にしたのです。
今度のグラスは・・・マムではなく、ドンペリニヨンのようでした。

「他の方達は?」
このバーにわたくしが伺った事は、美貴さんや石塚さんにもとうに連絡がついていることでしょう。
「今日は美貴と石塚さんは京都にいるそうです。祥子さんがいらしたと聞いて、ふたりとも悔しがっていましたよ。上七軒の名妓を侍らせているところだったようですけどね。」
「ふふふ、相変わらずですのね。」
「そんなわけで、今夜は僕が祥子さんを独り占めする栄誉を手に入れたわけです。」
芝居がかった口調すら、おっとりと上品な山崎さんにはお似合いでした。
「お忙しいのに、駆けつけてくださったのでしょう。申し訳ありませんでした。」
「いえいえ、今日は夜の予定もありませんでしたからね。たまには、結城くんのことも早く帰してやりたかったので、好都合でしたよ。」
そう・・・たしか、結城さんというお名前だったわ。
「今夜は山崎さんがわたくしの雨宿りに付き合ってくださるの?」
「祥子さんが許してくださるなら、ね。」
「ふふふ、あのね・・・聞かせていただきたいことがあるの。教えていただけますか?」
「僕にわかることなら、なんなりと。」
こうして、わたくしはあの羞恥に満ちた元旦のドライブの間、ずっとハンドルを握っていてくださった女性ドライバーについて、山崎さんからうかがうことができたのです。

女性運転手 結城 2




わたくしが、結城さんという、どちらかと言えば小柄でボーイッシュな女性に出逢ったのは、元旦の朝、ホテルのエクゼクティブ・ルームの扉の前でした。
山崎さんの社用車のベンツを運転する方だと聞かされていましたから、てっきり望月さんのような男性だと思っていたのです。なのに、そこに立っていたのは20代前半の仔鹿のようなお嬢さんでした。

意外だと思ったのは、わたくしだけではなかったようです。
「おはようございます。結城と申します、よろしくお願いいたします。」
彼女はわたくしを一瞥すると、ピクリと右の眉を上げて堅い声で挨拶をされたのです。
「時間通りだね。休日出勤で申し訳ないがよろしく頼みます。」
山崎さんが優しく声を掛ける時だけ、彼女の表情が年相応の女の子らしい可愛さに和みます。
あら、結城さんは山崎さんが好きなのね、とわたくしはピンと来たのです。その<好き>がどんな種類のものなのか、わたくしは計りかねておりました。
少なくとも上司として、信頼しどんなことをしても着いてゆくことを厭わない・・・そんな尊敬だけはストレートに感じ取れたのです。

わたくしは、そんな彼女を運転手に指名した石塚さんと山崎さんに安心していたのです。まさか、うぶな彼女の前で・・・わたくしとの淫らな遊戯に耽るようなことはしないだろう・・・と。
でもその希望は、関越自動車道に乗ると間もなく打ち砕かれてしまったのです。





「結城くんは、25歳になったところです。」
あの方はおいくつなんですか?そう聞いたわたくしに、山崎さんはそう教えてくださったのです。
「そうなのですか。もっとお若いのかと最初は思いました。でも運転の技術を見る限りではそんなに・・・とも思いましたし、ましてや山崎さんのドライバーをなさっているのですから。」
「たしかに、社用車の専属ドライバーで、女性の25歳というのは珍しいでしょうね。」
「ええ。」
「彼女は変わった経歴の持ち主なんですよ。」
雇用主として・・・社用車の中で時折二人きりの時間を持つ上司と部下として、知りうることを・・・少しずつですが山崎さんは話しはじめてくれました。




結城くんは、長野県茅野市の出身なんです。
お父様がアルピコハイランドバスで観光バスの運転手をしていたことから、女の子でしたが車や運転に小さい頃から興味があったそうです。
実家が山を持っていたらしくて、父親の手ほどきで私有地では14・5歳のころから随分車を乗り回していたと言ってましたね。
4月生まれだったからと、高校3年の時には免許を取得し早速手に入れたワゴンRをチューンナップしては、夜は門限があるからと苦手な早起きをしてまで毎日乗り回していたそうです。茅野は長野でも南の方になりますから、雪も重いですし根雪にもなりやすい。そんな土地で、実質4年以上運転をしていたのですから腕も磨かれたのでしょう。

うちにはドライバーで入社したのかって?
いいえ、彼女はパタンナーとして最初は採用されたんですよ。
結城くんは長女でしたが、実家には年の離れた弟がいるそうです。田舎のことですから、家は長男が継ぐ。女の子は早くに結婚をするか、いずれ独立して生活できるようにと手に職をつけるようにと両親からは常々言われていたそうです。
アーティスティックなことが好きで、感覚に優れていて、メカに強い。
不況だから普通のOLになっても将来が見えないし、だったらCADオペレーターなんかどうだと高校の担任に勧められたと言っていました。
CADと一口に言ってもいろいろあります。
結城くんはその中でも、女性としては一番取り組みやすいパタンナーへの道を選んで、高校卒業後、文化服装学院のファッション工科専門課程へ進んだそうです。

履歴書を見ても、学校の成績の優秀さは群を抜いていましたね。
人事担当者によれば、CADとパターンメイキングのセンスはキラリと光るものがあると、文化の先生も褒めていたようです。
そうそう、履歴書を見ていて印象的だったのはアルバイトの経歴について書いてあった部分です。
普通は、ファッション系の専門学校生の子はショップの販売員とか飲食サービスなどのこうお洒落なアルバイトをしたがるものです。もちろん、そういった場所で感覚を磨くことも大事な勉強の一つなんです。
なのに、彼女が文化に通っていた3年の間にしていたアルバイトは「宅配便」だったんですよ。実家に帰ったときは当然のように車を乗り回していたのでしょうが、よっぽど車好きだったのでしょうね。あれには、驚きました。





「本当に運転がお上手でしたもの。」
わたくしも、彼女ほどではありませんが運転はします。車のことも、乗っている人のこともきちんと考えて、なお走る事を楽しめる・・・彼女のドライビング・テクニックには卓越したものがあったのです。
「次のお酒はいかがなさいますか?」
雨が小降りになったのでしょうか。店内のボックス席は2組のお客様で埋まっていました。カウンターのバーテンも、はじめてここに伺った時の男性の方・・・この店のマスターに変わっておりました。
「今夜はオンザロックのウイスキーをいただこうかしら。なにかおすすめはありますか?」
「そうですね。シングルモルトがよろしければ、ボウモアなどいかがでしょう。」
そう言ってカウンターに出されたのは18年ものの限定ボトルでした。
「こんな雨の夜にはいいかもしれないですね。お願いします。」
「それじゃ、僕も同じのを。」
山崎さんのグラスもとうに空いていたのです。
「かしこまりました。」

二人の前に、まぁるい氷を浮かべたバカラのロックグラスが並ぶまでさほどの時間は掛かりませんでした。
その間、仲の良い3人が揃ってマッカラン好きになったことをマスターにからかわれて、山崎さんは照れ笑いをその頬に浮かべていたのです。

「学生とはいえ、そんなに優秀だったのに結城さんはどうしてパタンナーを辞めてしまったのかしら?」
カラン・・・ わたくしの疑問に山崎さんはグラスを回しながらゆっくり答えてくださったのです。

女性運転手 結城 3




「お先に失礼します。」
ぴょこん、といった感じに頭を下げて私の前を歩いていったのは今年の新入社員の・・・なんといったかな・・あぁ、結城くんだ。
アパレルに入社する専門学校出の女の子にしては飾り気はないが、彼女の清々しい態度には好感が持てた。
たしか、いま百貨店部で一番力を入れているブランドに配属したと人事部長が言っていた。なかなかセンスがいい、いち早く戦力として活用するにはあそこが一番でしょう、そうブランドデザイナーも太鼓判を押したらしい。

アパレルに就職する。
一見華やかに見えるが、実は地味で濃やかな神経と、根気とセンスが必要な、神経の参る職場でもある。数ミリのパターン上のラインの違いが、売れ行きを左右することさえある。
私自身にはものづくりのセンスはなかったから、父の意向もあってずっと営業畑でやってきた。が、優秀なデザイナーと同じくらい、優秀なパタンナーはなによりも代え難い会社の宝だということは、経営陣に加わったいま何よりも実感していた。
彼女があの素直さのままに育ってくれたら、とすっと伸びた細い脚をまっすぐに出して歩いてゆく後姿を見送った。

その彼女の表情が、少しずつ堅くなってきたのは、入社3ヶ月を過ぎたころだろうか。SSシーズンのマスター・パターンをどのブランドでも起こしはじめる時期だった。
エレベーターや、彼女のブランドのあるフロアですれ違うと必ず微笑んで挨拶をしてくれていた子だったのに、全く笑顔を見せなくなってきた。俯いたまま、気付かずに私の前を通り過ぎたこともある。
生産部門の新入社員のことだ。越権行為であることを承知で、私はとうとうブランドのチーフ・デザイナーをランチに誘ったのだ。

「山崎専務がお昼に誘ってくださるなんて、珍しいですね。どうした風の吹き回しですか?」
ストイックな黒の装いが、チーフ・デザイナーの彼女にはぴったり似合っていた。胸のペンダントは・・・翡翠らしい。
「そんな風に言われるとは心外だなぁ。そんなに久しぶりでしたか、お食事をご一緒するのは。」
「ええ。専務になられて間がないのですから、お忙しいのはわかってますがたまにはこうしてご一緒してくださいな。」
「ははは、心がけておきましょう。」
私はどちらかといえば現場派だったから、百貨店部長をしているときはときどきブランドのデザイナーやパタンナーたちと飲みにも行っていた。いいものを彼女たちに創ってもらうのが、成績を上げる最短距離だったからだ。
目の前の彼女は、うちの叩き上げだ。私が平の営業マン、彼女がアシスタント・デザイナーの時代から気さくに声を掛け合ってきた仲だった。
「それで、何が聞きたいの?」
ずばっと切り込むのも、彼女らしい。私も率直に聞く事にした。
「新入社員の結城くん。なにかあったのか?」
彼女の表情が一瞬引き締まった。やはり・・・なにかあったらしい。
「山崎さんの眼にもわかりましたか。」
「いや、ちょっと気になってね。」
「実は・・・・」

チーフ・デザイナーが話してくれたのは、うちの職場ではありがちなことだった。
結城くんが配属されたブランドのパターンルームも、5名いる先輩パタンナーは全て女性だった。なにせ一番売れているブランドだから、展開アイテム数も多い。当然全員が忙しく、猫の手も借りたいほどだった。
そんな部門にきた新人は仕事の勘も良く、先輩たちに可愛がられていたらしい。
「でもね、そんなことばかりさせるにはもったいなかったのよ、結城さんのセンスはね。」
うちは実力主義だ。どの部門もどの職種も能力があるとわかれば、入社年次に関係なく仕事はさせる。猫の手でも借りたいと思ったチーフ・デザイナーは、異例とは承知の上で来春の新商品のうち、5アイテムのマスター・パターンを彼女に引かせることにしたという。
「よかったわよ、彼女の仕事。天性のセンスを感じたわ。それに新人だから、指摘したことも素直に直すでしょう。幾度かだめだしをするうちには、自分の実績を信じてなかなか出来上がったパターンに手を加えないベテラン・パタンナーのものより格段に完成度の高いパターンを引ける様になったのよ。」
そのブランドでは入社して半年はまずCADに触る事もできない、のが普通だった。
結城くんも最初の1月はほとんどそんな状態だったらしい。
たまたま、先輩社員の一人がインフルエンザと酷い花粉症でダウンし、どうしても急いで直さなければならないパターンが出たのがきっかけだった。今日中に出荷しなくては工場のラインにのせられない。先輩パタンナーが全員帰ってしまったあとで、彼女はチーフデザイナーの目の前で、その能力を披瀝することになった。
ただ、一度の偶然の出来事が結城くんにチャンスを与え、彼女はモノにしたわけだ。

「そのうえね、彼女の引いたパターンのアイテムの発注数が図抜けていたのよ。デザインをし、サンプルを作った商品が全部店頭に並ぶ訳じゃないのは、山崎専務ならよくご存知でしょう。」
「ああ、各百貨店のショップマスターやバイヤーの意向もあるからね。」
「スーツみたいな定番のものは、もうラインの説明なんかする必要も無いベテランがいるから彼女にはさせなかったの。引かせたのは、ワンピースばかり5点。いつものシーズンなら2・3点が残ればいいところなんだけど、なんと5点とも発注が付いてしまったわけ。」
「そうか・・・。」
チーフ・デザイナーとしても、百貨店部を統括する私の身にしてもそれは褒められこそすれ、何の問題もないことだった。それほどのセンスがあるのなら、来期はもっと沢山結城くんに仕事を任せたいと考えるのが普通だろう。
「でもね、それが先輩のパタンナー達には面白くなかったのでしょうね。ただでさえ、普通なら使い走りしかさせない時期にCADは与えるは、マスター・パターンを引かせるわ。あげくの果ては、いつも自分たちが手掛けても半分も残らないワンピースが全アイテム発注されるわ。で、なんで・・・と彼女を問いつめたそうよ。」
結城くんは素直に初めてCADを触った経緯から、全て問いつめるままに話したらしい。それを聞いた先輩達は、チーフ・デザイナーの依怙贔屓と、先輩デザイナーの仕事を横取りした新人だと・・・結城くんのことを決めつけたそうだ。

女性運転手 結城 4

「せめて、わたしに直に文句でも付けてくれたら良かったんだけど、とにかくわたしの前ではみんな結城さんには優しいのよ。でも、いなくなると随分な意地悪をしているらしいわ。」
目の前の白ワインを一気に明けた。
「仕事を任せた最初のころは、ただの緊張と責任感からいっぱいいっぱいになっていただけだと思う。でも、いまは違う。結城さんもああいうコだから、わたしにも言ってこないのよ。精一杯耐えて、なんとか認めてもらおうと努力してる。でも、あのコを見るとそろそろ限界かもって気がするわ。わたしのやり方が間違っていたのかもしれない。」
「そんなに、自分を責めることはない。こう言うときはチーフが間に入ったってこじれるだけだからね。」
感情に走った女性を理詰めで追いつめても、そのしわ寄せが余計に弱いものへ響くだけだ。
「来シーズン、結城くんが欠けてもなんとかなるか?」
「正直、手放すのは惜しいわ。でも、このままだと辞めるって言い出しそうな気がする。専務、どこか転属先に心当たりがありますか?」
「販売だがね、ショップで一人他社に引き抜かれて手薄になっている店がある。そこなら、1週間以内なら押し込めるだろう。君のブランドのショップだ。販売の現場を勉強してもらうという名目で、どうだろう。」
「ありがとうございます。早速明日話してみます。」
苦労人らしいチーフ・デザイナーの表情が和む。
幾多の女性同士のバトルを勝ち抜いて来た彼女だからこそ、心を痛めていたのだろう。
「百貨店部長に明日朝一で指示しておくから、午前中に連絡が行くと思う。よろしく頼みます。」





「そんなふうに、新入社員の自分を気に留めてくれるトップがいるって、結城さんは幸せですわね。」
「いえ、本当は全員にそう気配りできればいいんですけどね。たまたま、担当している部門のそれも技術系の新人だったから記憶に残っていただけです。いまは、デザイナー志望は多いですが、最初からパタンナーを志望してくる子は少ないですからね。」
目の前のグラスのウイスキーは半分ほどに減っていました。
「少し、いかがですか?」
マスターが差し出したのは、フィッシュ&チップスでした。ディルの入ったタルタルソースまで添えられていたのです。
「ありがとうございます。」
「このお時間ですから、お食事はまだでしょう。身体のためにもぜひ召し上がってください。ドーバー・ソールといきたいところですが、舌平目のフライです。」
二人の手元には、フォークとおしぼりと・・・それからチェイサーを用意してくださいました。
「海の香りのお酒に、フィッシュ&チップス。美味しそうですね。」
山崎さんはさっそく揚げたてのフライに手を出されたのです。
「はふ・はふ・・ん、いい塩味です。祥子さんもいかがですか?」
「ええ、いただきます。」 
どうぞ、ごゆっくり マスターの言葉と同時にわたくしの口の中には磯の香りが広がりました。
「ふふ、おいしい。」
「祥子さんは本当に美味しそうに召し上がりますね。お酒もお料理も、祥子さんに味わってもらえるなら本望でしょう。」
「いやですわ、山崎さん。まるでわたくしがくいしんぼうみたいじゃないですか。」
ははは、失敬 ソフトな声はわたくしの気持ちをほんわりと暖かくしてくださるのです。
結城さんも・・・同じだったのかしら。




チーフ・デザイナーからショップへの転属を言われた時は、ちょっとショックだった。

でも、針の筵みたいな毎日を思うと、おなじくらいほっとしたのも事実。
せっかく身につけたCADを生かせないのは残念だけど、所詮ここに居ても快くCADを触らせてはもらえないんだから、それなら一緒だと思ったから。
よく考えたら<売場>のことなんて、あまり意識したことがなかった。学校でもパターンを引く事にしか興味がなかったし。どちらかといえば、パターンを引くのって、エンジンのレストアみたいな感覚で楽しめたからだけど。
「これも勉強だと思って、がんばってね。あなたとはまた一緒に仕事がしたいわ。」
はじめて転属の話を聞かされて3日目。そう言って握手をしてくださったデザイナーに挨拶をして、午後から売場に顔を出した。

あんまり、婦人服を買いに行った事もなかったから、ショップの中のいろんなことや、百貨店の入退店のルールや、5大用語とか、シフトとか・・・もう頭はごちゃごちゃ。
明日からは開店前の9:30から6:00までの早出をしてね、と穏やかな雰囲気のショップマスターから言われて、明日からこれが制服だからと店頭にある洋服から一揃いをわたされたり。(もう一セットは本社に申請して手に入れるから、しばらくはこれでねと、マスターは言ってくれた。)
ゆっくりとショップにいらして商品を見るお客様に、いらっしゃいませ、と声をかけるだけでどきどきした。
峠を100キロで下って来てもぜんぜん平気なのに・・・。

翌日の開店時間。ショップのスタッフは通路に出て入店されるお客様全てに、いらっしゃいませ と挨拶をすることになっていると朝になって言われた。
先輩の隣で、慣れないブランドのスーツを着て頭を下げるわたしの頭の上から聞き覚えのある声がした。
「がんばってるね。なかなか様になってるじゃないか。」
「専務、おはようございます。珍しいですね、こんなお時間に。」
「おはようございます。」
先輩は明るく答えている。わたしも慌てて挨拶をした。

女性運転手 結城 5

「たまには、店長のところにも顔を出さないとね。このショップは稼ぎ頭だから、営業的にもプッシュするからがんばってください。」
「ありがとうございます。ショップマスターは今日は遅番なので、専務がいらしたと伝えておきます。」
「よろしく伝えてください。ところで、結城くんは売場は初めてだろう。どうですか?」
いつも会釈するばかりだった。挨拶して、がんばってるねって声を書けられるだけで嬉しかった。イケメンの専務が、わたしの名前を覚えていてくれたなんて。
「あの・・まだなにもわからないんです。先輩にご迷惑かけないようにがんばります。」
声が震えてたかもしれない。ちゃんと話さなきゃって思うだけあがってしまう。
「いつもエレベーターホールで挨拶してくれた、あの爽やかさでがんばればいいと思うよ。もっと肩の力を抜いてごらん。」
こんなに優しい声だったかしら、専務って。
「はい、ありがとうございます。」
「それじゃ、行くね。今日も一日がんばってください。」
「はい。ありがとうございました。」「ありがとうございました。」
先輩と並んで、店長室のある7階に向かう山崎専務に頭を下げた。

「専務がもう少し若かったら、ばっちりタイプなんだけどなぁ。」
今日入荷したばかりのカットソーをたたみながら、先輩がぽつりと言う。
「えっ、タイプって。」
「山崎一族の出身で次のうちの社長候補でしょう。優しいし、センスがいいし、イケメンで独身でお金持ち。背も高いし。40代前半だっていったかなぁ。さすがに恋愛対象にはならないしね。」
まぁ、良く出てくるなぁと思うくらい山崎専務のことをいろいろと並べ立てる。
えっ・・・独身。
「それって、玉の輿狙いですか?先輩。」
「だからぁ、年が離れすぎてるからだめだけど、結構憧れてる独身の先輩社員って多いのよ、山崎専務。百貨店部にファンクラブもあるんだから。」
「え・えぇっ・・・」
「結城さんからみたら、ただのおじさんかもねぇ。今年21だっけ?」
「そうです。」
「20歳以上年上だもんね。ん・・・世代の差をかんじるなぁ。」
今年26歳だっていう先輩が、愚痴る。
「あんまり先輩たちの前で、専務のことおじさんとか言っちゃだめだよ。怒られちゃうからね。」
「気をつけます。」
おじさんなんて思わない。本社ですれ違うときも、山崎専務だけはいつもドキドキしてた。挨拶の声がうわずったら恥ずかしいっていつも思ってた。
売場に移りなさいって言われて、ちょっとだけ躊躇ったのはもう専務の姿を見れないかもしれなかったから。偶然かもしれないけど、こんな風に店舗に来る事もあるんだ。
名前も憶えていてくれたし、沢山話せたし・・・・独身だってことも初めてわかった。左手の薬指に指輪をしてないけど、いまは結婚してる男の人でもそういう人は多いし。

わたしみたいな女の子のことなんて本気になってくれないだろうけど、好きになっても・・・いいよね。





「しばらくはそうして売場で頑張ってたんですよ、結城くんは。」
カラン・・・ 山崎さんのグラスも空いたようです。わたくしもゆっくり溶け出した氷で丸くなったボウモアを、とろとろと舌の上で楽しんでいました。
「次はなにに致しましょうか?」
話し込んでいるわたくしたちに遠慮をしてでしょうか。カウンターの少し離れたところに居たマスターがわたくしのグラスが空いたのを合図にでもしたように近づいてらっしゃいました。
「祥子さんは何にしますか?」
まだしばらくお話は続きそうです。
結城さんという女性のことは、わたくしの興味を引き続けていたのです。
「なにか、おすすめはありますか?」
「そうですね。テキーラはお召し上がりになりますか?ゆっくりお楽しみいただくのなら、よろしければカサノブレ レポサードが手に入りましたのでお出しいたしますが。」
コバルトブルーの手作りの味がある美しいボトルをカウンターに置かれたのです。
「口切りですか?」
山崎さんもこのお酒ははじめてなのでしょうか。まだ一度も開けられてはいないボトルの丸い蓋に興味をそそられたようでした。
「はい、昨日手に入れたばかりなんです。宮崎産のアップルマンゴーがご用意できますから、ご一緒に召し上がられてはいかがですか。」
「美味しそうですね。僕はそれで。祥子さんはどうしますか?」
「わたくしも山崎さんと同じものを。」
承知いたしました、マスターはソムリエナイフでボトルの蓋を開けると2つのショットグラスに薄く色づいたテキーラを注いだのです。




「専務、申し訳ありません。実は人選が遅れておりまして、後任の運転手がまだ決まっておりません。」
秘書課長がそう言って私のデスクに来たのは一昨日のことだった。
常務以上の取締役には、専用の社用車と専任の運転手がつく。運転手は秘書課の所属だった。
私の社用車を運転してくれていたのは、子供時代から気心の知れた父の元部下だというドライバーだっ。その彼もあと二ヶ月で定年する。落ち着いた運転技術が信頼できたし、口も堅い、老練なタイプの運転手だった。
「佐藤さんはいつから有休消化にはいる予定なんですか?」
「はい、来月の20日からと言ってましたが、後任が決まってないならぎりぎりまで出勤するとは言ってくれています。」
「そうですか。佐藤さんはずっと頑張ってくれましたから、できれば有休くらいきちんと消化させてあげたいですね。」
「私もそうは思っているのですが。」
「心当たりがないわけじゃ、ないんだけどね。」
「専務にお心当たりがあるのですか。誰でしょうか。」
「百貨店部の結城くんという入社2年目の女性なんだ。」
「結城さんですか。」
秘書課長はまったくわからないらしい。まぁ、社員が5000人からいれば無理はないだろう。
「入社2年目というと、24歳ですか? そんな若い女性に勤まりますか?」
「いや、22かな。この間、百貨店部の懇親会でゴルフ場まで運転してもらったんだが、なかなかの腕だったよ。真面目そうだし、口も堅そうだしね。」
「はぁ。専務がよろしいのでしたら、人事部長に話してみますが。」
「打診してみてもらえないか。だめなら、また別の人を探さないといけないけどね。」
「はい、わかりました。失礼いたします。」