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黒衣の情人 1

「必ず連絡する。待っていてください。」
夏の夜にそう言って立ち去った黒い麻のジャケット姿のあの方からメールをいただいたのは、11月も半ばを過ぎたころでした。

 22日のジャズ・ライブで逢いましょう。
 その翌日は、予定を空けておいてください。
 祥子さんを独り占めさせてくれるね。
 楽しみにしている。
 あのホテルのロビーで
 ジャズとワインを楽しみながら待ってるよ。

 P.S.都合が悪いようなら早めに連絡をください。
                 長谷川

22日。
ライブの主宰者の沢田さんからも、是非に・・・とご連絡をいただいておりました。
この数ヶ月、突然に増えた仕事と私事にとりまぎれて、わたくしも2度ほどライブにお邪魔できないでおりました。
月に1度の楽しい時間すらゆっくり過ごすことができないなんて・・・もうメールを下さった方をなじることができなくなりそうでした。
長谷川さん・・・あの黒衣の紳士と二人きりの時を過ごすのは、1年ぶりくらいになるのでしょうか。
お見掛けしほんの少し言葉を交わしたのだって8月12日の夜が最後。
なかなかお逢いすることすらないのに、なぜかわたくしの心には彼の存在が深く刻まれておりました。それは、真性のSだという彼がわたくしに与える狂ったような一時のせいなのかもしれません。

22日。
わたくしは手帳を開いて、その日の夜から翌日の23日までの予定をすべて空けたのです。

沢田さんが教えてくださった22日のジャズ・ライブのプレーヤーは、久しぶりのデュオでした。
熱い演奏をするピアニストが最近めきめきと腕を上げたサックスプレーヤーとコラボレーションをすることになっていたのです。
澄んだ空気を創り出すサックスの音色に絡むあのピアノの音を想像するだけで、わたくしは手首にはじめてその男性に掛けられたハンカチの縛めのきしみと、降るような蝉時雨の音を・・・蘇らせてしまっていたのです。
著名な建築事務所の一翼を担う一級建築士。
でも、わたくしにとっては心まで縛る1人の男性でしかありませんでした。
あの方なら、きっとまた黒い出で立ちでお越しになることでしょう。
隣で、アウスレーゼをご一緒しながらジャズを楽しませていただくために、わたくしもその日は黒の装いを選んだのです。

シャツはメンズ仕立ての超長綿の黒に致しました。細番手の綿100%ならではの深い光沢が、この色を引き立ててくれました。
膝丈のAラインのスカートを選びました。左脚の前にだけ膝上15センチほどまですっきりとスリットが入っています。ウール・ベネシャンの素材はしなやかにほんの少し揺れる裾に上品な光をのせてくれます。
ジャケットは、もしかしたら長谷川さんも同じ素材をお召しになるかもと・・・
悩みました。それでもこの組み合わせには、革のテーラードジャケットしか考えられません。冷え込む夜の移動を考えてブラックのムートンのコートを選びました。
最後にあの方にお逢いした夏の夜は、わたくしはレースのワンピース姿でした。
数ヶ月の時間は、季節も気温も・・・なにもかも二人のまわりを変えていたのです。

ランジェリーは、お洋服とは反対に全く光沢感のないものを選びました。
胸の谷間をいっそう悩ましく創り上げるハーフカップのブラ。Tバックのショーツ。バックシームのストッキング。それを吊るガーターベルト。
夜の闇が凝ってわたくしの肌にまとわりついているような・・・深い黒のレースづかいのものばかりです。足元は、黒のミドルヒールのパンプスです。

真っ黒な装いの中で・・・ただひとつだけ色味が違ったのは真紅のサテンスリップです。
ハーフカップブラぎりぎりまで胸元のラインがカットされ、スカートのスリットと同じ位置にスリットの入った美しいローズレッドの1枚を、わたくしはアクセサリー代わりに身に纏うことにしたのです。
ティー・ローズの香水と共に。

黒衣の情人 2

祝祭日の前日は、午前中から打ち合わせがいくつか続いた忙しい日でした。
第一釦だけを開けた黒のシャツ姿は、肩を流れる黒のロングヘアと共にストイックな印象をお逢いしたクライアントの皆様に与えることに成功したようです。
時折、スカートのスリットの向こうにちらっと見える真紅の色に眼を止める方がいらしても、次の瞬間には次のプレゼンテーションのための難しい議論に一瞬垣間見えたその景色も打ち消されてしまったことでしょう。
予定よりも1つ増えた打ち合わせに、わたくしがジャズ・ライブの会場であるいつものホテルに伺えたのは、Firstセッションの2曲目がもう終わろうとしているころでした。

都内のホテルの庭は、まだ紅葉には少し早いようでした。
とはいえ、夏の盛りとはわずかにちがうくすんだ緑が、ライトアップされた築山の景色を落ち着いてみせていました。春先には花を楽しませてくれた桜や、もう少しすると真っ赤に彩られる紅葉よりも先に、銀杏が黄色い彩りを玉砂利の上にちらしていたのです。
外の景色に眼が行くほどに、ライブの会場はしん・・・と紡ぎ出されるバラードの音の中に埋もれておりました。
沢山のお客様がいらっしゃるにもかかわらず、厚みのあるピアノの音色とシルクのようなサックスの響きが人の気配を圧しておりました。
いつも・・・わたくしが女友達と共に座る席の二つ隣に、長谷川さんは軽く眼を閉じて座っていらっしゃいました。
支配人が、眼顔でその隣の席を勧めてくださいます。
わたくしはゆっくりと彼に近づいて、15cmほど離れている手前の椅子にそっと腰を下ろしたのです。

枯葉・・・
丁度1年前に、長谷川さんからのメッセージ付きのランジェリーを支配人から渡された夜にも、同じデュオで演奏されていた曲でした。
あのときは、そのふた月まえの夜のこともあって、わたくしはとても動揺したままであの夜の演奏を心からゆっくりと楽しむこともできなかったのです。
それでも、耳の底に残っている音色とは・・・今夜の音は何かが違っておりました。
ピアノの方のテクニックでしょうか。
支配人がわたくしに注いでくれた、アウスレーゼが生まれた国の石畳を思い出させるような・・・今夜はそんなアレンジだったのです。
眼を閉じた彼にグラスを掲げて、わたくしはゆっくりと宝石のような白ワインを喉へと落としていったのです。

「来たね。」 
枯葉のラスト・・・サックスの音が消えた瞬間に、会場内の拍手と一緒に長谷川さんの声がいたしました。
「ご挨拶もしないでごめんなさい。ワインいただいているわ。」
手の中のワイングラスを彼の視線の先に差し上げたのです。
わたくしの胸元のシャツ釦は、お仕事の時よりも1つだけ余計に空けてありました。
「ああ。もちろんだよ。」
長谷川さんは、はじめてここでお逢いした時の様に席を立とうとはなさりませんでした。
ゆったりと椅子に身を沈めたまま、今夜はライブはライブとして楽しまれることになさったようです。
彼のその様子にわたくしもリラックスをして、次の音楽を・・・リリカルな音でつむがれたエミリー・・・を受け入れることにしたのです。

1枚仕立てのムートンのコートは大きな椅子の背に掛けてありました。
わたくしは革のジャケットの釦を外して、ジョージ・ナカシマの椅子にふかく腰掛けたのです。
Aラインのスカートの裾が自らの重みでわたくしの左の太ももとその間の真紅のスリップを露にしたのです。それは、今夜のストッキングがガーターベルトで吊られたものだと、他の方の眼にはわからないぎりぎりの位置だったのです。
わたくしの右には長谷川さんがいらっしゃるだけで、左にはどなたもいらっしゃいませんでした。それでも、ホテルのサービスの方や主宰者の沢田さんや演奏者の方から見えないとも限りません。わたくしは脚を揃えると、左の裾を自然な感じに整えました。

メロディアスな曲の間、長谷川さんはずっと静かに聞き入ってらっしゃいました。
その次のSeptember in the rain・・・まで。
時折動く長谷川さんの指先が、瞳を閉じたままの彼が寝ている訳ではないことを教えてくれていました。

黒衣の情人 3

あの夜の再会は本当に偶然の贈り物でした。
夏のさなかに、石塚さんが招待してくださった竹上グループの東京湾クルージング。100名近いパーティ会場のワインカウンターでわたくしたちは再会したのです。
わたくしにとってはジャズとワインがお好きな黒衣のS男性・・・でしかなかったこの方が、とても有名な設計事務所を支える花形の一級建築士であると知らされた夜でもありました。
いつもでしたらご一緒にいらっしゃる若い素敵な男性の方達が、ただの友人などではなく彼を師とも慕う部下の方だということもそのときに初めて知りました。

今夜の長谷川さんは、サンローランのものらしい黒のピークドラペルのスーツをお召しでした。インナーは黒のタートルネックのセーター。足元はブーツで、隣の椅子に掛けられていたコートはバーバリーのブラック・トレンチです。
この時期なので革のジャケットでいらっしゃるかと思っていたわたくしの想像は、いい意味で裏切られました。
オーセンティックな装いは、長谷川さんにとても似合っていたのです。

今夜・・・メールはいただいたものの本当に彼がいらしているかどうか、わたくし自身は半信半疑でした。
夏のあの日、お逢いして大してお話しする間もなく石塚さんに別室へと誘われ、パーティが終わるまで戻ってこなかったことがなにを意味しているかということぐらい、この方はご存知だと思っていたからです。
わたくしを手にいれるためなら、他の女は全て切る。
そうおっしゃった方が、あからさまに眼の前でパーティの主宰者の1人だとはいえ・・・他の男性にさらわれてゆく様を見て、なおもわたくしに執着するとは思えなかったからです。
もし、いらしてなかったらジャズだけを楽しんで帰ればいい。
メールを送っただけでいらっしゃらない・・・という、罪のないこの方の仕返しくらいは甘んじて受けようとさえ思っていたのです。

それでも、長谷川さんはいらっしゃいました。
きっと1曲目がはじまった・・・そのときから。
パチ・パチパチパチ・・・・
「これでFirstセッションを終了いたします。Secondセッションまで約30分ほどの休憩を頂戴します。どうぞゆっくりとお食事・ご歓談をお楽しみください。」
司会の沢田さんの声と同時に、照明が明るくなってゆきました。

「忙しかったんじゃないのか?」
カラ・ン・・・ ワインサーバーからボトルを取り上げると、クロスで水滴を拭き取りわたくしのグラスに注いでくださるのです。
「ごめんなさい。打ち合わせがひとつ増えてしまって。」
「ははは、こんな祥子さんと一緒にいられるなら仕事の1つや二つ余計に発注したくもなるな。」
チン・・ ご自分のグラスにも蜂蜜色の液体を注ぐと今日はじめてグラスを交わしたのです。演奏中、不用意にそういうことをなさらないのが、この方らしい好ましいところでした。
「お世辞がお上手ね。」
冷やされたワインは火照りはじめた喉を心地良く冷やしてゆきます。
「世辞なんか言わないさ。な、支配人。」
「ええ。よろしければこちらは厨房からです。」
シルバーのトレイから支配人が差し出したのは白い大きな四角いお皿でした。
骨つきハムのキューブカット・2種類のチーズ・ガーリックトースト・ドライフルーツ・2種類のオリーブ・・・そしてお野菜がきれいに盛りつけられておりました。
「加納様にお越しいただいて、厨房もサービスも喜んでおります。どうぞごゆっくりなさってください。」
2枚の取り皿とフォークとペーパーナフキンもテーブルに並べられました。
「ほら、祥子さんだからだよ。僕だけじゃ、こんな皿は出て来ないね。」
「ご容赦ください。長谷川様。」
腰の低い支配人は、一礼をして他の席のオーダーを聞きに行かれました。
この方は、わたくしと長谷川さんのはじめての情事を襖ごしに全て聞いていらした方です。
わたくしたちの秘密の関係をご存知の数少ない方だったのです。
「オリーブはどっちがいい?」
長谷川さんが取り皿を手にされていました。
「グリーンのほうをください。」
程よく熟したブリーチーズと、オリーブとガーリックトーストを乗せたお皿をわたくしに差し出してくれます。
「ありがとうございます。ごめんなさい、わたくしがしないといけないのに。」
「いいさ。今夜来てくれたからね、その些細なお礼の気持ちだよ。」
ご自身はハムとブラックオリーブを取り分けて、さっそくワインとのマリアージュを楽しんでいらっしゃいます。

黒衣の情人 4

「お約束は違えませんわ。」
「ああ、それはわかっている。だけど、1曲目のオレオが終わって枯葉が始まっても祥子さんの姿が見えなかった時には、本気で振られたと思ったよ。」
「もう、そんなに信用がないなんて・・・」
「夏の時もあっさりと石塚のジュニアに攫われたからな。」
「あの時は・・・」

「お久しぶりです。加納様、長谷川様。」
わたくしの抗弁は、ジャズライブの主宰者の沢田さんの声に消されてしまいました。
「いつも、お声がけしてくださってありがとうございます。お伺いできなかったりして・・・気まぐれですみません。」
「いえいえ、気まぐれでもこうしてお二人に来ていただけるだけで私も嬉しいんですよ。」
沢田さんの視線が、わたくしのスカートのスリットを這って行ったような気がして少し緊張してしまう・・・。
「ピアニストの方、腕が随分上がりましたね。」
「そうだね。ピアノの彼も久しぶりなので、余計に解るのかもしれません。力任せな感じが消えて、こう音が削ぎ落とされた様になってエミリーなんてとても心地良く聞かせてもらいました。」
「サックスの方も。このデュオも久しぶりですものね。少し緊張感があるけれど、なんていうか・・・それがいい音の厚みになっているような気がするわ。」
「お二人にそう言っていただけると彼らも励みになります。Secondセッションもゆっくりお楽しみ下さい。」

「祥子さんとここで逢うと、ゆっくり二人きりというわけには行かないみたいだ。初めて逢ったときみたいに、逃げ出したくなる。」
別のお客様のところに向う沢田さんの背を見つめながら、長谷川さんが愉快そうにおっしゃいます。決してご機嫌を損ねてらっしゃるわけではないと、その表情でわかりました。
「ふふふ。」
「あの主宰者の彼も、君のファンらしい。駄目だよ、誘われても付いて行っちゃ。」
「心配なさらなくても、誘われたりなんてしませんわ。」
グラスに残っていたワインを口にいたしました。オリーブは微かな塩味と完熟した実ならではの滋味がふんわりと口中に広がります。このフレッシュさは小豆島あたりの国産のものでしょう。
厨房からだと言ってくださったおつまみの数々は、どれもワインにぴったり合うものばかりでした。料理長は和食出身の方だと聞いていましたが、もうお一方の洋食のシェフのセンスはかなりのもののようでした。

30分の休憩もそろそろ終わりなのでしょうか?
お席をはずされていたお客様が少しずつ戻っていらっしゃいます。
Secondセッションの1曲目は、いつものTake Fiveでしょう。
「まあいいさ。今日はこのあと祥子さんを独り占めさせてもらえるんだろう?」
「ええ、お約束通りに。」
わたくしの言葉が終わると同時に、照明が落ちて・・・ピアノがTake Fiveのあの独特のリズムを刻みはじめたのです。
Take Five
パーカルズ・ムード
Fly me to the Moon
Work Song
Secondセッションはリズミカルに楽しめる曲で構成されておりました。
長谷川さんとわたくしは、あらためて言葉を交わすことはありませんでした。
ただ、眼の前のお皿に手を伸ばし、空いたグラスをワインで満たす時だけ自然と視線がまじわるのです。
その瞬間、長谷川さんの目元だけがふっと和らぐことに、わたくしは不思議な幸せを感じていたのです。

「ごちそうさまでした。」
フロントで会計を済ますと、わたくしは支配人とサービスチーフにそうご挨拶をして、長谷川さんが差し出してくださるムートンのコートに袖を通しました。
「車が来ています。また、どうぞお越し下さい。」
長谷川さんがお願いしていたのでしょうか。
タクシーが正面玄関で1台待っておりました。
「冷えています。お風邪など召しません様に。」
先に乗り込んだ長谷川さんの隣に座ったわたくしを確認して、支配人はドアを閉めてくださいました。
「ありがとうございました。おやすみなさい。」
そろって頭を下げるお二人の声にかぶる様に、長谷川さんが行き先を運転手さんに告げられたのです。
でも、そこは・・・わたくしにはあまり心当たりのない場所の名前でした。

黒衣の情人 5

「いいライブだった。」
「ええ、ワインもお食事も美味しかったわ。ごちそうさまでした。」
改めて長谷川さんにお礼をいたしました。
二人、一緒になっていた伝票を、今夜は彼が清算してくれていたからです。
「いや、祥子さんのお陰で美味しいものが食べられたようなものさ。」
隣の席で笑う長谷川さんは、手ぶらでいらっしゃいました。
長谷川さんがお勤めになっている設計事務所は、ライブ会場になっているホテルの近くだったはずです。きっといろいろなモノは、そちらに置いていらしたのでしょう。
わたくしは、少し大きめなバッグが1つ。
書類の類いはオフィスに置いてきましたが、今夜は長谷川さんと過ごすためにパンティとストッキングの替えだけはポーチに入れて忍ばせてきていたのです。

タクシーはいくつかの大きな交差点を曲がり、15分ほどで大きな工事中のビルの前に停まりました。
「ああ、ここでいい。ありがとう。」
長谷川さんは料金を差し出しています。
「ありがとうございました。」
開かれたタクシーのドアから降り立ったわたくしは、どこに行けばいいのか・・・まったくわからなかったのです。
ここは、永田町の近くなのでしょうか。オフィス街のまっただ中。
当然ですが、深夜23時を回っているのです。周囲のビルはどこも明かりが落ちていました。
「祥子さん、こっちだよ。」
長谷川さんの声に、わたくしはタクシーを降りた通りから街区へ入ってゆく道を彼に付いて歩いてゆきました。
左手には外観は既に出来上がっていますが、まだ仮囲いは外れていない高層ビルがありました。
白いその仮囲いには、黒々とビルの名称と<竹上開発><竹上建設><黒部設計>の名前が印されていたのです。

「ここなのですか?」
質問を口にしようとしたわたくしは、表通りから丁度真裏にあたる路地に入ったところで、長谷川さんは仮囲いのシートをずらして待ってらっしゃる姿に気付いたのです。
「早く来なさい。」
わたくしをシートの中に引き入れると、その中のゲートを閉めてセキュリティーカードを差し込みます。
長谷川さんの手には、いくつもの鍵とカードがありました。
ゲートの中には長谷川さんのベンツが停まっています。
これに乗って・・・いいえ、今夜長谷川さんはもうわたくし以上にワインを召し上がっているのです。だとすると・・・。
「寒いだろう。中に入ろう。」
大型の懐中電灯を手にした長谷川さんが、ビルの通用門に当たるドアを開けているのです。
「ここは、どこ?」
「質問は上に上がったら答えてあげるよ。」
優しい声で、わたくしの肩に手を回すと、背中のドアの鍵を下ろしたのです。

工事用のスケルトンエレベーターをいくつか乗り継ぎました。
「ここだよ。」
最後に、長谷川さんに背を押されて降りたフロアには、エレベーターから漏れる明かりで鉄骨に<34>という数字を書いた紙が貼付けられていたのがわかりました。
バァン・・・ゥィィィィィ・・・
長谷川さんがエレベーターのすぐ側にあった建築用の大型のブレーカーを繋いだようです。
フロアにところどころに強い照明がついたのです。
目の前に広がる床は、まだコンクリートを打ちっぱなしにしただけのようでした。
いくつかの壁は出来上がっていましたが、長谷川さんが向われた先は、エレベーターから外壁までの間は・・・柱はあるもののまだ壁のない空間でした。
エレベーターホールから見ると少し歪んで見えるフロアの先には、現在のこの内装の状態にはそぐわないいくつかのものが見えたのです。
その1つは、グランドピアノでした。
「こっちだ。来なさい。」
長谷川さんが、空間を摘まみ上げます。
手元にたくし上げられたものを見て、それが天井から床まで張り巡らされた透明な建築用のシートであることがわかりました。
1人、工事現場のエレベーターホールに残されるのは不安でした。
わたくしは小走りに長谷川さんに近づくと、長身の彼が開けてくれた空間へ入り込んだのです。
「次はここ。」
同じようなシートを3枚、わたくしは長谷川さんと共にくぐったのです。
その先には、100坪以上の広い空間が広がっておりました。